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 更新日:2023年01月31日

「力行会の足跡」その4を紹介します。
今回は、南米ラプラタ川北部の小国「ウルグアイ」について紹介します。

今回取り上げた調査についても、前回同様に今から33年前、

当時の島貫理事長の命により、各地の力行会員の実態調査が実施し、
その中の第4回の報告がこの記事となります。

そもそも、こんな小国に日本人移住者がいるのかというお話しなのですが、

この文章にあるとおり、実は1908年6月18日にブラジルのサントス港にブラジル契約日本人移民移民が初めて

到着したことはご存じだと思いますが、実は、この同船には既にアルゼンチンで手広く日本商店をされていた

「滝波商店」店主・滝波文平と、その支店をウルグアイ首都モンテビデオで開設すべく店員の坪田静仁氏が

同船していたことがキーポイントとなります。おそらく、笠戸丸の中で多くの日本人移住者の方々は、

この滝波文平氏から現地事情を入手されていたことから、その後、待遇の悪いブラジル契約移民耕地を脱走し、

多くの方がアルゼンチンに転校されたことが容易に推察されます。

なお、公式にはこの坪田氏が正式移住者第1号となっていますが、その後、他の文献から同時期にもう一名日本人が

地方に居住されていることが判明しています。

多くの日本人移住者たちは、主に、その後アルゼンチンのブエノス・アイレス近郊で盛んとなった、花栽培の技法を

ウルグアイにも取り入れ、主に、花栽培を都市近郊でされる方と都市部で商業を営む物との2通りの方々が多く存在しました。

この当時ウルグアイを訪問した際には、ブラジルからウルグアイへ転校された力行会員4名が存在しておりましたが、

現在は全員ご逝去され、校外にある日本人墓地に埋葬されています。また、ブラジル力行会100周年式典終了後に

再び、ウルグアイを訪れた際には、デング熱流行後生花を墓地にお供えすることが禁止となったなどから

花卉園芸に従事される日系人の方々は激減し、日系子弟の多くの職業は多様化しているのが現状です。

最近では、「世界で一番貧しい大統領」で日本でも一時有名になったホセ・ムヒカの国として注目を浴びましたが、

タンゴの名曲「ラ・クンパルシータ」も今から凡そ100年以上前に、首都モンテビデオの学生運動から完成した曲であることも付け加えておきます。


(「力行世界・964号 平成3年1月15日号」より抜粋 事務局・田中)