お問い合せはこちら: 03-3972-1151
 更新日:2023年02月21日

南米ボリビアにも当会の会員の足跡があり、特に明確な記録は戦後移住者で

ブラジルからボリビア・サンタクルス市近郊にあるサンファン移住地に

技術者として転住された方や、移住家族会子弟研修生として当会に在住されていた方々が

サンタ・クルス市や近郊の日本人移住地のサンファン移住地とオキナワ移住地に

現在でも居住され、中には現地で市長として活躍されています。

なお、戦前移住に関しては、多くがペルーからアンデス山脈を越えてアマゾン源流を

辿り、ボリビア北部のリベラルタ近郊でゴム栽培に従事された方々も多く、その子孫が

その後首都ラパスに移り住み、商業に従事され、彼らが戦後のボリビア日本人集団移住の

足がかりをつけることとなりました。

中でも、今回ご紹介する会員の面高俊次郎氏はペルーからアンデス超えでアマゾン川源流を

手製の筏で上流のボリビアの町にたどり着いたことを手紙で当会に報告頂くと共に、

手紙を頂いた一年後に実際に面高氏の住むボリビア・コチャバンバを訪問し、当時の様子を

いろいろとお聞かせ頂きました。特に、筏が転覆した際に、多くの身につけていた私物を失い、

唯一残っている品物が、アルマイトの弁当箱とその中に入っていたお線香のみだったと実物を

見せて頂き、すべての気持ちのよりどころを失ったら自分ならどんな気持ちと行動をとっただろうか、

と考えさせられました。

既に面高氏は他界されておりますが、現在も娘さんのティティやお孫さんのシンティアさんと

マルセーラさんはボリビア・フォルクローレの聖地でもあるコチャバンバで元気に活躍されて

いることと思います。別れ間際に言われた「パイサーノ」というスペイン語、つまり同郷人という

意味の言葉が今でも大変思い印象的で脳裏を離れません。

(「力行世界・970号 平成4年1月15日号」より抜粋 事務局・田中)